「歴史とはなにか」 〜岡田先生・宮脇先生によるスペシャルセッション@〜
2010年7月31日(土)
サマースクール3日目の7月31日(土)、岡田先生・宮脇先生によるスペシャル・セッションが開催されました。当日は、これまで岡田先生の歴史観についての検討を重ねてきたヨハネ生たちに岡田先生と宮脇先生が直接お話をしてくださいました。 このページでは、岡田先生に語っていただいたご自身の歴史について掲載します。

岡田先生 今日は、私の考える歴史について、一番小さな話と、一番大きな話をしたいと思います。小さな方は私の記憶、大きい方は宇宙の起源についてです。

まず、記憶についての話をしましょう。私は昭和6(1931)年、東京の本郷・本駒込一丁目で生まれたそうです。父の話では安産で、産婆さんが駆けつけたときにはもう頭が出ていたといいます。

最も古い記憶は、弟の生まれた朝のことです。私は部屋の中をぐるぐると回りながら、電灯によって自分の影が壁に映るのを、ふしぎに思っていました。おそらく1934年、鎌倉でのことでしょう。

そこから、私の歴史が始まります。私はいま79歳で、最初の記憶から76年が過ぎたことになりますね。生まれた年に満州事変があり、76年間、色々な事がありました。

私は1943年に、九段の暁星中学校に入学しました。父はフランス語を学ばせたかったようですが、神父さんたちが教えてくれたのは英語でした。1945年の大空襲では、中学も焼けてしまいます。この年の8月、日本は降伏しました。

学校が焼けてしまったので、私は成蹊高等学校の尋常科に入学し、1947年には成蹊高等学校の、理科乙類に進みました。英語以外の外国語を学ぶのが乙類です。当時、医学の道に進む者はドイツ語を学ぶために理科乙類に入りました。私の父は大学で薬理学を教えており、私は父の後を継ぐつもりでした。

しかし事件が起こります。成蹊高校の図書館で、漢籍・東洋史の大コレクションに出会ったのです。私は毎日3冊の本を借り、帰りの電車で1冊、夜に1冊、そして行きの電車で1冊、本を読む生活を送り、とうとう全部読んでしまいました。

やがて大学受験が迫ってきました。大学の医科を受ければ、周りは父のことを知っている人ばかりです。これでは、私が偉くなっても、父のおかげだと言われるでしょう。そこで私は父とは違う道へ進もうと、河野六郎の勧めで東京大学の東洋史学科に入学することにしました。

最後の旧制大学生として卒業すると、朝鮮戦争のために600万人が半島から引き揚げてきました。就職に関する状況は最悪です。私はどうせならと、東洋史の中で最も人気のない朝鮮史を学び、書いたレポートが先生の目にとまり、学会誌に掲載されることになりました。

私は、満洲史の研究会で、満州語を習いました。そこでの研究が認められ、26歳のとき最年少で「学士院賞」を受けました。父より先に学士院賞を取ってしまったのです。

その後、ワシントン大学教授のニコラス・ホッペ先生に弟子入りして渡米し、モンゴルについて学んでいます。この頃、日本では新安保闘争などがありました。私はそれをアメリカで知って「日本人はもうダメだ、アメリカ人になろう」と思ったことがありました。

また、チベットのダライ・ラマが国外へ脱出し、秘密であったチベット文化が初めて世の中に知られたのも当時です。チベットに関する研究所がカリフォルニア大にでき、私にもチベットの友人ができました。それから、来日してモンゴル語の写本を探していたワルター・ハイシヒ教授の通訳となり、西ドイツに連れていってもらいました。

当時の中央アジアは中国とソ連に二分され、研究にも自由がありません。ただ、PIACという場では言語学・人類学・歴史学の共通の話題が話され、共産圏の学者も自由を得られました。私もオランダでの第七回会議以降、ほとんど毎年参加しています。こうして世界の各地を回り、文法を覚え辞書を引けるようになった言語は全部で十四カ国語です。

大きい話の方に移りましょう。物理学の定説では、時間と空間は137億年前、ビッグバンで生まれたことになっています。物理学の進歩は大変なもので、『世界史の誕生』執筆時には200億年前とされていました。ビッグバン以前に時間はなく、そこから時間が発生します。

太陽系は45億年前に生まれ、地球には生命が発生しました。人類の祖先が生まれてから百万年は経っていませんし、世界史で数えられる人間の歴史は5千年くらいでしかありません。また、日本の歴史は、668年の天智天皇即位に始まります。1942年前のこのとき、天皇・日本という称号が現れました。

私の記憶にある76年間と、宇宙の137億年を比べれば、私の一生など一瞬です。しかし、歴史を考えるには、私はこの76年を基準にせねばなりません。


宮脇先生 岡田は11年前、脳梗塞による失語症で言葉が出なくなりました。頭の中に何があるかは分かっているけれど、それと名前が結びつかないのです。リハビリで血が流れなくなった部分とは別の場所に言語中枢を作り、今はそちらをゆっくり通すと言葉が出てくるようになりました。

その後、岡田・宮脇研究室という小さな研究室で、昔、岡田自身が書いたものをインプットし直していきました。私は30年以上弟子をしていますから、外国でも、岡田の知人は私を知っています。私が説明をしたり、手紙を書いたりして、私の英語力も飛躍的に上がりました。

さて、私が弟子入りをしたとき、岡田と私の差はとても大きいものでした。しかし、私に対等な話し相手になってほしくて、いっぺんに何もかもを教えようとするのです。何時間も教え続けられたりするので、私は夜中に疲労で目を覚ましたりしました。赤ちゃんが刺激が多いときに知恵熱を起こすのと同じですね。

岡田は、最初に一番レベルの高い話をします。それは下駄をはかせてもらうということで、私は岡田に英訳を作ってもらって国際学会で大成功してしまうのです。ただ、質疑応答ではつまずきます。

みなさんも、きっとそういう体験をしますから、こんな話をするのです。高いレベルの人間に持ち上げられ、ぶら下げてもらうと、遠くの風景を見通すことができます。「自分もあそこへ行くんだ」と、歩き始める前から見ることができるのです。そうすると、自分の足で歩くとき、とても楽になりますよ。最初に視野が広がることで、悩まず努力ができるのです。これこそ英才教育ですね。若いときに最高級のものに触れるというのは、とてもいい。だから、こちらのヨハネ研究の森は、とてもいい学校だと思います。