ヨハネ研究の森が誕生してから丸12年が経ちました。創業当初、何もないところからヨハネ研究の森の形を模索していた1期生たち。「生活と学び」、「合唱」や「研究発表会」といった独自の学びの形を作り上げた1期生たちが卒業し、彼らを直接知っている六期生以上も去年で卒業しました。2013年度、今年度は第2次創業の年。夏休みが明けた二学期、私たちは改めて「ヨハネ研究の森」とは何かを考えました。
「関係障害」の根本理由
今、日本で大きな問題になっていること、それは「関係」の問題です。内に引きこもって、関係を遮断してしまったり、思い通りに行かないことに逆上して暴れたり、人やものとうまく関係を築くということが難しい時代になっているのです。
その原因は、様々ありますが、根本の理由は「個人」と「自由」という考え方にあります。人は生まれたときから「個人」として生まれ、個人の「自由」な意思は尊重されなければならないという考え方です。この考え方は素晴らしい理想であると同時に、非常に危うい一面を持っています。
たとえば、2人の個人がいて、一緒にどこかへ行こうとしたとき、双方の意見が食い違ったとします。どちらかの意見に統一するということは、お互いの「自由」を尊重している限り、不可能です。
もちろん、現実にはどちらかが妥協をしたり、権力関係の中で優先される方が決まり、意見は統一されるのですが、こうした関係の中で「自由」という理想はいともたやすく打ち砕かれてしまうのです。それが当たり前だと受け容れるか、どこかで「自由」という理想を放棄するかしない限り、この状況は不満を生みます。不満はストレスであり、不快なものです。
人間は「不快なもの」から遠ざかりたいという本能があります。ですから、その結果、自分の「自由」を守るために人は容易に関係を遮断するのです。そして、「他人と関わることが怖い」という病を生じていくのです。
<<検討の中で観た映像>>
『硫黄島からの手紙』 『明日への遺言』 『コーラス』
学びの共同体づくり
通常の学校では、子どもたちは毎日学校と家庭を往復する中で成長します。そこでは、子どもたちは「個人」であり「自由」な意思を持っているとされています。しかし、そのような抽象的な「個人」は先ほど述べた通り、どこにも属そうとはしません。家庭にも、学校にも属すことはありません。なぜなら、どのような場に置かれても、常に半身でいることこそが、「自由」を確保するための賢い在り方だからです。
しかし、その関係の在り方こそが、学校教育を根本的に破壊してしまっているのだとヨハネ研究の森は考えます。
通常の学校では先生が一方的に知識を詰め込み、テストでそれを採点し、子どもたちの目に見える部分だけを評価しています。だから、そのテストができるようになりさえすれば何をしても「自由」でよいのだと子どもたちは学びます。それは誰に教えられるわけでもなく、「学校文化」という形で彼らに共有されていきます。
学校の授業で教えられた内容は全部忘れてしまっても、「学校文化」の中で身につけたものは忘れません。それはその場にどのように関わり、その中でどのように生きるのかという「生き方」そのものだからです。
ヨハネ研究の森が目指すものは、「学びの共同体づくりの実践」です。それは「全く新しい学校文化」を作り出していく、「生きる力」を本当の意味で身につけることができるような文化を作り出していくという営みなのです。
ヨハネ研究の森の文化
ヨハネ研究の森で評価されるのは「テストができる」ということではありません。そこで「憧れの対象」となるのは「偏差値の高い人たち」ではなく「他人を思いやり、自分のことよりも他者を優先できる人たち」です。
ヨハネ研究の森は、全寮制で24時間他の人と一緒に生活しています。一緒にいて楽しいときもあれば、激しく衝突することもあるでしょう。その「人間は社会的動物である」、「人は1人では生きられない」ということはよく言われますが、寮で一緒に楽しく生活するためには、どうしても協力が必要になります。
彼らはヨハネ研究の森の中で、自分1人ではどうにもならない現実に直面するのです。そのとき、いつもそばにいる誰かが助けてくれる、ということが起こります。自分が苦しみ、困っているときに、それを察して誰かが助けてくれる。何も言わなくても、分かってくれる。そういう出会いがあったとき、人は「ありがたい」と恩を感じます。「自分もこの人のようになりたい」と心から思うのです。人は、このときに師を得て「学ぶ」のです。
教育とは、テストの点数を上げることではありません。教育には常に「恩」が伴うのです。誰かに何かをしてもらって初めて、人は「人間らしく」なっていくことができるものだからです。
親が育ててくれなければ「狼少女」のように2本足で立つことも、言葉を理解することもできなかったでしょう。今、こうして文字を読み、社会で生きていくことができるのは親のおかげです。師の恩、社会の恩、たくさんの恩を受けて私たちは「人間」になっていくのです。
そのように、「自分が受けた恩を自覚し、感謝すると共に他者に自分の持っているものを与えることができる人」の生き方を仏教の言葉で「旦那」と言います。また、その逆に「恩を知らず、自分のことだけを考え、自分の利益だけを追い求める人」を「餓鬼」と言います。
寮で、学校で、「他者の中でどのように振舞うべきか」と問い続け、「人間」として在るべき姿を実践しようとするヨハネ生がヨハネ研究の森にはいます。
人間性の起源
馬は、生まれてすぐに立ち上がりますが、人間は生まれてからしばらくの間、他者によって育てられなければ生きることができません。
そして、「教育」を受け、言葉を使えるようになり、社会の一員として参加できるようになって一人前になっていくのです。人間だけが「教育」を必要とします。教育を受けなければ、ヒトは「人間」にはなれないのです。
それでは、この「人間」とはいったい何なのでしょう。「人間らしさ」、「人間性」というものはいったいどこから来たのか。DNAレベルで見たときには、チンパンジーと人間で98%は同じだと言われています。チンパンジーと人間とで、いったい何が決定的に違うのでしょう。
ヨハネ研究の森では「合唱」をします。聖歌や唱歌をみんなが声を合わせて、共鳴し、共振し、互いに響きあって1つのハーモニーを生み出します。
合唱部ではありませんから、決して技術的に優れているわけではありません。歌が好きな子が集まっているわけでもありません。しかし、ヨハネ生が一丸となって歌うその歌声はしばしば聞く人の心を打ちます。
ヨハネ研究の森を見学に来た学校関係者はその歌声を聞き、思春期の子どもたちが恥ずかしがることもなく、みんなで一緒に合唱をしている、そのこと自体にも驚かれます。
聖歌や唱歌を「合唱」するのは「人間」だけです。共鳴し、共に歌い、それを聞く人も共にふるえる。「人間とは何か」。そして、この「歌」はいったいどこからやってきたのか。それは、かつてのヨハネ生が夢中になったテーマです。自分たちが生きている中で感じたり、考えたりしていることを突き詰めて行くと、そこから「学問」の世界につながっていきます。
小難しい論文や本は自分たちと無関係ではなく、むしろ、自分たちが考えていることそのものだと気付くのです。
夏休みが明けて、2学期がはじまりました。ヨハネ研究の森は第二次創業期を迎え、改めて「ヨハネ研究の森とは何か」を問い直しています。
「憧れられる人はどんな人か」、「恩とは何か」、「学びの共同体とは何か」、「合唱、共鳴とは何か」。そして、「人間とは何なのか」という根源的な問いへとこれから検討を進めていきます。