ヨハネにおける「要約」とはなにか
2012年4月12日(木)

百人いれば百通りの要約がある

ヨハネ研究の森では、映像を観たり、人の話を聞いたりした後で必ず要約をします。ヘレン・ケラーの『奇跡の人』の映像を新入生保護者会で観た後、それぞれが自分のことばで要約をしました。要約とはなにか、なぜヨハネ研究の森では要約することに力を入れるのか。

「ことば」で「区切る」

笠原正 みなさん、昨日一昨日と『奇跡の人』の要約を書いたでしょう。みなさんにとって要約とはなんですか? ただ話を聞くのではなく、それぞれ自分で考えてみてくださいね。
 さて、要約するときに、必ず必要になるものがありますがなんだか分かりますか? 「ことば」と「文字」です。これを使って要約するのは人間だけですね。人間は、「ことば」で世界を区切って、その中で生きているんです。
 人間は、「ことば」がないと「認識」できないんです。「認識」というのは、あれとこれは違うと「区別」して行動するということです。「どこで切れ目を入れるか」というのは、一人ひとり違います。ですが、「ことば」を使って世界を「区切る」ということなしには人間は生きられません。
 ヘレン・ケラーが「ことば」を獲得する前というのは、混沌としたカオスの世界です。何がなんだか分からなかった。ヘレンは、「ことば」を手に入れて、世界を「ことば」で切り分け、全体像をつかむことができるようになったときに、初めてヘレンは人間になったんです。
 だから、要約というのは、映像を観て、自分なりに「切れ目」を入れて、取り出してみる。そして、それをもう一度組み合わせて「これは一体なんなのか」という全体像を「再構成」するということです。これは「ことば」の力を総動員しないとできません。まず、「ことば」で「切れ目」を入れる。そういう意識で「要約」をしてみるといいんじゃないかと思います。


「ことば」で共有する

松並 笠原先生が要約について話そうとしたことは、「認識論」とか「言語とはなにか」のような話なので、かなり難しい話なのです。だけどそれを面白いって言って聞いている中高生って、見ていて不思議だなと思いました。自分の高校時代にはそういう感覚を持てていたのかどうか考えると、やはりここの生徒たちはすごいなと思います。
ちょっと補足で、「ことば」がなかったら「区別できない」という話を少ししたいと思います。
 たぶん、「ことば」がなかったら「カオス」で何がなんだか分からないと言われても、実感ないだろうなと思うのです。僕は、これはたとえば「進路について」考えてみたらいいと思うんです。ヨハネ研究の森を明日卒業します。さあ、どうする? 大学に行く? じゃあ、大学に行って、卒業しました。次は? 働く? 何をして? どこかの会社に入って? クビになりました。さあ、どうする? 誰も雇ってくれません。起業する? 失敗しました。さあ、どうする? もう、どうしたらいいか訳が分からないと。ここまで来た。何がなんだか分からない。右も左も、前も後ろも、どっちに進むべきかどうにも分からない状態。これが「カオス」な状態なのです。
 「ことば」はそこに光を当てる。今どういう状況なのか。どこから来て、どこへ向かっているのか、何をすればいいのか。そういうことを「ことば」で整理しながら人は生きているんです。
 そのとき、重要なことは「ことば」は「共有できる」ところに意味があるということです。「絶対的な正解」を求めて、一人で考えていても空しいだけです。仮に「これが正しい」と自分で思っていても、それを誰とも共有できなかったときにはそれを「信じ続ける」ことはたぶんできないでしょう。
 人間は、「ことば」を通して、他の人と「共に」生きている。「要約」は、自分が考えたこと、感じたこと、そういうことを込めて、それを他の人と共有しようと思って書く。そうでないと、テストで求められる要約のような通り一遍の要点をまとめただけのものになって、みんな同じようになってしまいます。これは、つまらないから僕は、あんまり読みたいと思わない。
 要素を取り出すというのは、「区切る」作業です。要約はそこからさらに一歩進んで、その要素を総合して「これはこういう意味だよね」と解釈をしてみせることだと思います。そういうものだったら、読んでみたいと思うし、きっと面白い。 アナロジーを働かせる


「これが正しい要約」なんてない

横瀬 国語のテストなんかでは、「正しい要約」というものがどこかにあるとされていて、私なんかの要約はいつもバツをされていた。
 だけど、「正解」なんて本当のところ分からないんだよね。百人いたら百通りの要約があるんですよ。本を読むのだって、「正しい分かり方」があると思われているけれど、本当は同じものを読んだって一人ひとり「分かり方」が違うんです。
 人は「ことば」を使って「理解をつくりあげている」けれど、それは未知のものを自分が既に知っているものと関連させて、「○○みたいなものだよね」とアナロジーを働かせるということ。既知のものから、見当をつけているんです。
 そして、この「○○みたいなものだよね」と思う思い方というのは一人ひとり違う。過去に経験してるものがみんな違うんだからそれはそうだよね。「あれに似てるな」と言うときに使う「たとえ」は一人ひとり違って当然なんです。
 そして、違う「たとえ」方だから、他の人の理解の仕方を聞くと「ああ、なるほど。そういう風にもとらえられるよね」と思って、自分の理解が「組み替わる」ということが起こるんです。
 こうして、自分なりに「とらえ」て、それを「共有する」ということが学校で身につける一番大切なものなんです。
 毎日、「今日の学習」という用紙にその日に自分が見たり、聞いたり、感じたり、考えたりしたことを自分のことばでまとめるのは、そういう力の基礎になるものです。教科学習だってそうやってやっていけばいいんですよ。問題を解いて、できた、できないじゃなくて、これは一体どういうもので、何をしようとしているのかということを自分なりに描いてみる。それが「自学」ですよ。
 このあいだ卒業してイギリスの大学に留学した清井織太くんはそれを徹底していったんです。彼は、英語なんて全然できなかったところから、卒業論文を英語で書くところまで自学でいってしまった。
 彼が何をしたかというと、日本語でやっているのと同じことを英語でもやっていったんです。英語を読んで、自分なりにとらえて、それを自分のことばで要約する。それを徹底していった。
 みなさんが、今こうして要約をしているのは自分で学ぶための基礎づくりなんですよ。