3.11 あの大震災から一年、私たちに何ができたか
2012年3月9日(金)

3.11の体験


横瀬 東日本大震災からもうすぐ一年が経ちますが、被災地はまだまだ瓦礫を片付けただけで、本当の復興というのはこれからです。どうにもしようがないような津波と災害に見舞われてしまったとき、私たちは一体どんな判断をして、何をするのでしょうか。実際のところ何ができるのでしょう。
 今日は、宮城県利府に住んでいて、実際にあの地震を経験した森島くんに来てもらって、あの時、一体どうだったのかということを聞いてみようと思います。


森島 3月11日は、ヨハネ研究の森の卒業生が何名か私がいる「NeoALEX」に訪ねて来るということで、お迎えの準備をしていました。彼らが到着して、席に着いた直後にグラっときたんです。
 震度6強の地震は、今まで体験したこともないような揺れ方でした。だんだんと強くなっていくんです。突き上げるような揺れで、重たいステンレスの机がくるくる回ったり、天井が崩れたり、本棚などは立ったまま壊れていくんです。これはただ事ではないと思いました。みんな本能的にすぐに外に避難しました。
 外に出てみると、これは不思議なんですが、ヨハネの卒業生たちが来たときには晴れていたのに地震の直後に物凄い雪が降ってきたんです。
ラジオでは、10メートル以上の津波が来ると言っていて、僕たちのいるところは高台なので直接の心配はありませんでしたが、「本当に?」と思うことばかりが次々と起こりました。


文明がストップしてしまう

 地震の後、電気も水道も止まってしまいました。電気は割りと早く復旧しましたが、断水は三週間ぐらい続きました。その間、一番困ったのは、トイレです。
 水が使えないということは、トイレは流せないということです。外で用を足すしかない。幸い、まだ冬の時期で雪が降っていたのと、近くにあるサッカー場に面した山林があったので、そこでその地域の人たちは用を足していました。
 これが夏場だったり、コンクリートだらけの大都市だったりしたら、かなり悲惨なことになっていたかもしれません。
 流通も止まってしまい、大きなお店には何も置いていなくて個人商店のようなところに長蛇の列ができるんです。6時間並んで、ナスとトマト一つずつと携帯電話の充電が10分できるだけ。しかも、つながらない携帯電話の充電を10分。それでも並んでしまうくらい混乱していました。


町内会に駆り出される

 地震から3日目、4日目と町内会で炊き出しや備蓄をしていたものを配布するという活動に駆り出されました。普段の町内会の活動で僕たちはガスボンベやコンロ、食料を備蓄しておいたのですが、千人規模なので、備蓄は全然足らず、あっという間になくなってしまいました。まったく想定が甘かったとそのときになって分かりました。
 それから、飲料水の配布の手伝いを毎日していました。2,000リットルの給水車に長蛇の列ができ、それを整理して、水を配る。こちらはボランティアでお手伝いしているのですが、災害時には異様な雰囲気があり、みんな殺気立っていました。一日8時間給水車の前で水を配っていても休憩すら許してくれない。「休まず水を配れ」と詰め寄られたこともありました。


原子力発電所の事故

 原子力発電所が爆発したというニュースが流れ、放射性物質が飛び散っていると言われたときに、どうすればよいのかと考えました。
 宮城県を脱出して安全なところへ逃げるか、それともここに残るのか。もし、僕たちがいなくなったら、町内会の人たちは困るだろうということは分かっていました。
 断水の期間中NeoALEXの人たちは、この辺を花園と呼んでいるのですが、この地域の水道パイプの替りを担っていました。坂の下にある市役所からポリタンクに水を入れて担いで花園まで登って水を配布したり、パンを焼いて周りの人たちに配ったりもしました。
 だから、原子力発電所の事故は不安だけれど、この人たちを見捨てて逃げてしまってよいのだろうかと迷い、動くことができませんでした。
 しかし、しばらくすると僕たちは20名を越す大所帯でしたから、このままでは食料も尽きてしまうということが見えてきて、一旦、数名を残して山形に避難することになりました。


どう生きるのかが問題

 東日本大震災から一ヶ月、いろんな人といろいろな関わりがありました。詰め寄られたり、助けられたり、何もしようとしない人たち、本当にこんなことが起こるのだと思うようなことばかりでした。
 原子力発電所の事故、放射性物質が危険だと分かっていても、逃げられないということがあった。逃げれば逃げることはできるけれど、それは同時に他の人たちを「見放す」ということでもあるんです。
 自分の命が安全で生きているということが一番よいことかもしれませんが、僕たちはただ生きているというわけではない。他の人たちと一緒に生きているんだということをこのときあらためて自覚させられた気がします。自分が安全に生きるということで他の人を犠牲にしているかもしれないということも。
 どちらも大切、だけど、どちらかしか取ることができない。一体どうしたらいいのだろうと思い悩んでいるとき、横瀬先生と話をして「やれるところまでやるしかない」と言われ、不思議と気が楽になっりました。生きるということは、そういうものかもしれないと思いました。きちんと生きられるだけ生きて、それで死ぬなら仕方がないのかもしれない、と。
 これは、簡単な話ではありませんが、一人ひとり、自分がどう生きるのかということを考えないといけないと思います。究極の選択を求められたときに、自分は何にもとづいて判断を下すのか。
 これから先、また同じようなことが起こらないとも限らない。3.11は終わってはいないのです。