邪馬台国をめぐる論争
2010年6月9日(水)
『まぼろしの邪馬台国』著者の宮崎康平氏は「現代考古学の扉を開いたハインリッヒ・シュリーマンを、邪馬台国が待っていないと、だれが断言できよう」と語る。日本のシュリーマンとも言える彼が探し求めた邪馬台国とは、一体どのようなものなのでしょうか。 - 6月9日のセッションより。



「魏志倭人伝」と邪馬台国


「倭人は帯方の東南大海の中に在り」の書き出しで有名な「魏志倭人伝」。そこには、当時の日本で暮らす人々の様子が「女王の都する所」邪馬台国までの道のりと共に記されています。

しかし、この記録から邪馬台国の正確な位置を特定することは困難なことでもあり、今なおその場所を巡って論争が繰り広げられています。

今回のセッションでは、この邪馬台国論争を資料を交えながら取り上げました。


邪馬台国論争とは

大下T 邪馬台国については、一般に畿内(京都・大阪・奈良の付近)説と九州説があるようですが、そこにはどのような推理があるのでしょうか。では、川口先生と笠原(正)先生にお話をして頂きたいと思います。

川口T 邪馬台国は、神話の世界の話かと思っている人もいるかもしれません。しかし、江戸時代に新井白石が大和説と九州説を唱え、その百年後に本居宣長が九州の中でも他の地域の説を唱えているように、実在したと考えている人もたくさんいるのです。そして最近になってまた、東大と京大の先生が、九州にある、いや畿内にあると主張して論争になりました。

中国の文献の「魏志倭人伝」と言う資料に、魏・呉・蜀の三国時代に、中国から邪馬台国までどのように行けばいいのかという記述があって、それをもとにこうした論争が始まっています。「魏志倭人伝」によると、この道のりは、今のソウルのあたりから始まっているようです。そこからの進み方の解釈次第で、邪馬台国の場所が変わってきます。

笠原T 当時の日本には文献がありませんから、これ(「魏志倭人伝」)を見るしかないのですね。

川口T「西暦239年頃に卑弥呼が魏に使いを送った」ということが記されていますから、弥生時代の最後の頃に邪馬台国があったのだろうと言われています。

この「魏志倭人伝」の本文は、『まぼろしの邪馬台国』第一部の254ページに載っています。

笠原T 漢字だけの行が元の文で、その隣の漢字とひらがなが混ざっているのが書き下し文と言います。書き下しの方を読みますね。(しばらく朗読)

川口T 邪馬台国に至る国の人々は、すごく遠い所に住んでいるということです。

笠原T それから、ろくな所に住んでいない、と。いい田んぼがないし、道はけもの道。米も自分の所では満足な収穫がないから、別の所へ買いに行っていますね。



邪馬台国はどこにあるのか


川口T 邪馬台国の位置については、ものすごく沢山の説があります。福岡の説だけで30くらいありますし、佐賀にある、熊本にある、宮崎にある、など様々です。

笠原T 本居宣長は、卑弥呼が「熊襲」の首長だと言っていますね。

川口T 近畿説だともっと沢山あります。それだけではなく、ジャワ、スマトラ、エジプトだという人もいます。千葉県なんていう人もいますね、これ、ヨハネから近いですよ。

笠原T そういえば、沖縄県の竹富島にも、「邪馬台国へようこそ」という看板を掲げた民宿がありました。

川口T 発掘された遺跡から、倭人伝に書いてある国の位置を、ある程度は予想していくことができます。吉野ヶ里遺跡も、「邪馬台国ではないか」と言われていました。しかし、最近ではどうもそうではないらしいということになっています。

こうして遺跡を辿ると、途中までは倭人伝の通りに進んでいけるのですが、邪馬台国に近づくにつれて、場所がよく分からなくなるんです。

笠原T 距離についても、「水行十日、陸行一月」が「水路十日と陸路一月」を合わせた長さなのか、「水路十日か陸路一月」のどちらかの長さか、で意見が分かれたりしていますよね。この「水行十日」は、瀬戸内海を通りますか。

川口T 昔の中国では、日本は南に長い国だという説もあったようです。1500年頃・明代の地図ですね。そうすると、今の日本をひっくり返して逆立ちしたような形になりますから、方角的にも瀬戸内海を通って畿内に行くことができます。


邪馬台国と日本人

笠原T しかし、当時の人は、ここまで方角を間違えるものなのでしょうか。

高雄T 身体感覚は、昔の人の方が鋭かったのではないですか。絶対的な位置感覚が分かる、ということがあったはずです。

川口T 色々な研究者が、奈良に邪馬台国を持ってくるためにはどのように解釈すればいいか、と考えてしまうようです。そして、邪馬台国と大和政権とのつながりも明らかになっていません。大和政権が東に、九州から奈良へと攻め上ったと考えると話として合う。だから九州にあった、ということも言われていますが…。

笠原T 神武天皇の東征では、東に進んだと言われていますね。ただ、本当に東征したのか、それとも神話の形式として「移動して現在の場所に入る」ということを表現したかっただけなのか、そこははっきりしないところだと思います。

川口T これは神話につながりますか。

笠原T 確かに、「邪馬台国は、ヤマト国の発音の訛り」という説はありますが、神話とのつながりは分かりませんね。

…それにしても、この「邪馬台国」という漢字、ひどいですね。当時の中国では、自国以外は蛮族です。「匈奴」も「鮮卑」も、強い勢力ですが、ひどい名称です。

大下T 当時の日本はまだ文字がないような状況で、自国の記録を残している人もいないのですね。それで、邪馬台国の実在さえ、はっきりしない。中国側の記録しかない状況で、それでも記録が本当なら邪馬台国がどこかにあるはずだ、と探しているのでしょう。そして、それらしいものは見つかっても、決定的なものは見つからない、という状況ですね。

高雄T つい最近、奈良あたりで発見があり、これで邪馬台国は畿内説で決まり、という新聞記事を読みました。何が発見されたのでしょう。

川口T 鏡か遺跡であったはずです。

高雄T 鏡のような発見があると、新聞でも畿内説だ九州説だと大騒ぎしますね。鏡は贈られたのかもしれず、それが出てきたからといって邪馬台国とは限らない、という反論もあったように思います。日本人にとっては一大関心事ですね。

大下T 著者の宮崎さんは、島原の人がどこから来てどこへ行くのか、ということが気になると言っています。私たちは、日本人がいつから高度な文明を持っていたのか気になるのですね。

保科T 何かの結論が曖昧になるときには、その根拠をはっきりさせた方がいいでしょう。私は「魏志倭人伝」でいうと、スタート地点が正確なのか、ということが気になります。それに読み方も、「卑弥呼」が「ヒミコ」だというのは本当なのでしょうか。「対馬国」にしても、原文では「対海国」です。

いずれにせよ、スタートが違えば、ゴールは全く違ったものになるでしょう。

川口T 帯方郡の位置自体、確定はされていません。ソウル周辺でそれらしい所はあります。どのくらい正確に地図を描けたか、という問題もあるでしょうね。

大下T 読み方についても、耳で聞こえた音を、中国語で書き取っている訳ですから。実は女王の名前は「ヒミコ」ではなかったのかもしれません。

高雄T 卑弥呼はとても長生きです。そして、誰にも会っていないのですね。ずっと神殿の奥深くにいて、その政令を男性が表に出て伝える。卑弥呼は本当に実在したのでしょうか?

大下T 卑弥呼の存在自体が、命令の権威づけのための作り話であったり、誰かが仕組んでいたということも考えられるでしょうね。


邪馬台国と神話

邪馬台国の存在について思いを巡らせることは、日本人の原点を考える、ということにもつながっているようです。 シュリーマンがトロイ発掘のきっかけとしたのはギリシャ神話でした。では、宮崎氏の情熱をかき立てた「まぼろしの邪馬台国」もまた、日本の神話なのでしょうか。この点も、これからヨハネで検討していく必要がありそうです。また映像を観て、考えていきましょう。