暁星国際小・中・高等学校 Gyosei International School
ヨハネ研究の森コース St. Johon's School
『てんびんの詩』を観て
〜「ヨハネ研究の森」がここにもある〜
2011年6月1日(水)
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『てんびんの詩』はイエローハットの創業者・鍵山秀三郎さんが企画・製作を手がけた映画です。 商家の跡継ぎである主人公の少年が「なべぶた売り」を通して人間として大きく成長していく姿が とてもリアルに描かれています。
あらすじ
10代続いた商家に生まれた主人公の大作は、小学校を卒業した日に父から呼ばれ、祝いに風呂敷包みをもらいます。 中身は「なべぶた」でした。「明日から行商に出でこれを売って来い、もし売れなかったら商家の跡継ぎにはできない」と 父は言うのです。
天秤棒を担いで行商を始めた大作はまず、自分の家に出入りしている大工や植木屋を訪ねます。 世話になっている商家の息子ということで大事に扱われますが、 なべぶた行商だと知ると途端に態度が冷たくなります。 親の威光を笠にきた商いなど元からうまく行くはずもありませんし、ましてや行商の修行だと知ると義理で買うことなどなおさらできません。
そこで次は、見知らぬ人の家を回ってみますが、ほとんど口さえ聞いてもらえません。 父が茶断ちをし、母が心で泣いて、彼以上につらい思いをしていることも知らずに、大作はやがて親を恨み、 買ってくれない人々を憎みます。
甲賀の売薬を真似て「えへへへ」ともみ手と愛想笑いで卑屈な演技をし、時には乞食娘を真似て泣き落としの演技をしてみますが、 所詮はウソと猿真似、反感を買うだけでした。 親戚の叔母さんなら買ってくれるかも知れないと思い、 片道40キロの道のりを歩いて叔母さんの家に行ってみますが追い返されるばかりでした。
ある日、大作は農家の近くの川の洗い場に、鍋や釜が置いてあるのを見かけます。 近寄ってなべぶたを手に取って、ふと、「このなべぶたがのうなったら困るやろな。 困ったら買うてもらえるかも知れん」と思いますが、次の瞬間、大作はなべぶたを洗い始めました。
「こら! 人の鍋を、何しとるんかい!」と、持ち主のおばさんに見つかり咎められると 「すんまへん。わし、なべぶたが愛おしゅうて、それで・・・」と大作は答えます。 「なに、鍋蓋がいとおしいだと? 」
なべぶた行商に出て3ヶ月も経つのにまだ1個も買ってもらず、売るためにこっそりこのなべぶたを壊そうと考えたが、 このなべぶたも誰かが同じように大変な思いをして売ったものかも知れないと思うと無性になべぶたが愛おしくなってしまい、 洗いたくなったと大作は話すのでした。
大作の話を聞いたおばさんは、「そうか、そうだったのか。そのなべぶた買おう。売って欲しい」と言ってくれたのでした。 大作は初めてなべぶたを買ってもらえたのです。 おばさんはさらに近所の人たちにもと声をかけてくれ、おかげでなべぶたは売り切れます。
大作は、「商いは天秤の棒のようなものだ。どちらが重くてもうまく担げない。 売る者と買う者の心が一つにならないと、ものは売れない」という商いの神髄を知るのでした。 大作は、かつて父がそうしたように、天秤捧に大正13年 6月某日となべぶたの売れた日付を書き込み、 父や母が待つ家へと帰って行くのでした。
どこに自分を重ねるか
初めてこの映画を観た人は、主人公の大作少年に感情移入します。 小学校を卒業した日に突然お父さんから「なべぶたを売って来い」と課された試練。 なぜなべぶたを売らなければならないのかも分からないまま、意味も分からず、右往左往。 しかし、なべぶたは全く売れません。いくら試行錯誤しても失敗続き、どうして買ってくれないんだとお客さんを忌々しく思ったり、 もうどうにもしようがない、逃げ出したいところまで追い詰められてしまいます。
この姿は、ヨハネ研究の森に入ってきたばかりのヨハネ生の姿に重ねることができます。 ある日、ヨハネ研究の森に入学してきて、右も左も分からないまま、「掃除」や「セッション」、 「自学」に「ゼミ」と忙しい毎日。 1日の終わりには必ず「今日の学習を書け」と言われ、意味も分からないまま先輩の見よう見まねで日々の修行をこなしていきます。 しかしまだまだ「今日の学習」を書く意味が分からないので、ついついサボってしまって主任研究員に叱られても「一体何が悪いんだ」と 理不尽に感じることもあるでしょう。
『てんびんの詩』は大作少年を通してとてもリアルに不平不満を感じる人の姿を描き出しています。 ここに自分を重ねることができる人は多いでしょう。
しかし、ラストシーンで大作少年は大きな気づきを得ます。 「なべぶた売り」をさせて何を学ばせたかったのかということが体で理解するのです。 このシーンに自分を重ねることができるヨハネ生はヨハネ研究の森で確実に成長を遂げている人たちです。 大作のなべぶたを愛おしく思う気持ちは、「自分の掃除場所」や「今日の学習」を愛おしく思う気持ちに通じるものがあります。
なぜやらなければいけないのかよく分からないまま、それでもやり続け、継続する中でその意味を自分でつかみ取っていく体験は 「学校で教えてもらって知る」のとは比べ物にならないくらい重要な学びを与えてくれます。
そのように大作の深い気づきに自分を重ねることができるヨハネ生がしばらくすると後輩を指導する立場に立つチャンスがやってきます。 彼らはそこで後輩を育てるということを体験します。
ワガママな新入生、不平不満を言ってやることやらない後輩、 一筋縄ではいかない苦労を知っているヨハネ生は主人公の大作が後輩の1人に重なってきます。 「それは違うでしょ」、「それは自分のワガママじゃない? 」、大作が出会い、大作を叱る人たちの台詞が自分が後輩に言う台詞に重なります。 大作の家族が大作に厳しいことを言いながら、どれほど大作の成長を願っているか。 そういう気持ちに自分が重なっていきます。『てんびんの詩』で泣ける人は、後輩の成長が我がことのように嬉しいという体験をした人でしょう。
人が育っていくリアルな姿
『てんびんの詩』をヨハネ研究の森での生活に重ねてみると人が育っていくリアルな姿が描かれていることに気づきます。 本当にそうやって人は気づいていくのだという実感をもって観ることができる映画です。
だから、この映画を自分が一体どの段階にいるのかという視点で観てみるととても面白いのではないでしょうか。 「不平不満」を言っているだけの段階なのか、「意味を自分でつかみ取っていける」段階なのか、 「人を育てる喜びや楽しさに目覚めている」段階なのか。 『てんびんの詩』、それは人の成長段階を測る何よりも正確な、恐ろしいテストなのかもしれません。
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