尾崎さんは、アメリカへの留学経験を持っている。交換留学制度を使ってアメリカのネブラスカ州内の
大学へいったという。大学では経済学を専攻した。初めのうちは他の日本人学生の中でも抜群に良い成績
を取れたのだが、段々とガス欠状態になってきてしまった。まず経済学が好きではなかった。そこで、な
ぜ自分はアメリカへ来たのかを考えた。それが転機だった。本当に好きな事は何か、尾崎さんには3個あ
ったという。「絵」を描くこと大好き。「歌」で生きていく幼い頃から人の前で歌うのが好きだった。
「劇」小さな頃から機会があれば監督、脚本、主演みんな自分がして演じていた。中学生の卒業論文には
俳優志望と書いた。尾崎さんはこの3個の夢の中から自分の人生をつくっていこうと考えたと言う。中学
生の頃までは夢があった。高校を卒業して大学には「偏差値」で入った。尾崎さんいわく、段々と夢を忘
れていた。第一、偏差値は重要だが、教科のできるかできないということだけ。その人が何をできるか、
したいかを問題にはしていない。しかも偏差値は「偏った差の値」と書くではないかと僕らを笑わせてく
れた。
そして、尾崎さんの選んだ夢は「劇」。演ずること。絵は好きだけれども、出版社の制約に縛られる人
生はいやだからやめ、歌は絶対音感を持っているけれども、楽譜が読めないからやめにしたという。そし
ていま俳優をしている。本当に自分がやりたい事を仕事にしている。その尾崎さんから講演の間幾度も僕
らへのメッセージをもらった。
自分に本当にやりたい事があるならば本気で突き進んでほしい。しかし、目標をかなえたいときにはふ
たつの敵が必ず現れるという。ひとつは「他人の目、意見」。これがあると思うと、拒絶されてしまうの
ではないかと不安になる。でも僕に意見を言ったひとが僕の人生を保障してくれる訳ではない。「親、家
族」家族は僕のためを思うからこそ「無理だ」と言う。ダンスがしたいのなら、本気である事を見せる。
何事も、やって見せればいい。自分で「無理だ」と線引きをしないで、人生を形作っていってほしい。
講義の冒頭に、まず尾崎さんの経験してきた舞台の映像を見た。尾崎さんは第二次世界大戦時の日本兵
を数多く演じてきている。僕はその映像をみて表現力に、まさに脱帽した。特攻機に乗り、戦艦に激突す
る場面をエンジン音と、証明と、尾崎さんの敬礼の姿、表情だけで表現する。僕には本当に芯に迫ってく
る、恐ろしいものを感じた。しかし尾崎さんは特攻を経験した訳ではない。舞台の準備の為、特攻機を送
り出した人に話を聞きに行く事もしたというが、体験した事とは違う。舞台と言うのは、日本中をまわっ
て公演をするため何百回も特攻を演ずる。尾崎さんは、劇は本当に難しいと語った。
「硫黄島からの手紙」はハリウッド映画である。実際に尾崎さんがハリウッドに行って感じた事は、ア
メリカの映画は何が「Real」か「真実味」があるかを問題とするという。「硫黄島からの手紙」の監
督クリント・イーストウッドは非常に自然な状態を撮ることを美徳としている。メガホンをもって「アク
ション!!」というのではなく「OK〜」と囁くのだという。日本軍硫黄島守備隊の大将栗原忠道の名言
「我常に諸子の先頭にあり」をまさに実践している、理想のリーダー像であると言っていた。そして、尾
崎さんの演技も、大久保中尉と言う役柄で、勝手に大久保中尉という役を作るのではなく自分にとって何
が真実味のある演技なのかということを言っていた。実際に撮影の裏側では何があったのかも語ってくれた。
尾崎さんが言いたかった事を一言で言うと「もっと自分に挑戦しろ」と言う事であった。自分で自分に
対して線引きをしてしまうのではなく、自分のやりたい事を見つけてそれを続けてみろと。さらに人生で
は「High Risk」をかけなければならないときがある。そうしなければ「High Return」は帰ってこない
と言われていた。例えば、中田英寿がそうである、早くから日本で成功していたが、もっと高い戦いのレ
ベルで成功をしたかった。だから日本を出てイタリアに渡った。当時アジア人の評価は非常に低いものだ
った。世界へ出たければ、日本を去らなければならない。
僕も中田のように、尾崎さんのように自分に挑戦しなければならない。今回講義を受けて、尾崎さんの
メッセージを受け取る事ができた僕はしあわせである。だが、僕は僕の人生を形作っていかなければなら
ない。ハリウッド、世界を舞台に活躍している人のお話を聞く機会を得る事ができて、今うれしい。
(中3 K.H.)
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