カトリックの学校がなぜ「道元」を学ぶのか
2012年4月20日(金)

「当たり前のことを当たり前にやる」、「徹底的に掃除する」、「その場と一体になる」そんなことを言っているところはヨハネ研究の森だけではありませんでした。
道元が建立した曹洞宗総本山永平寺、750年以上続く禅寺でも同じことが言われています。真の仏法を極めようとする僧たちは何をどのようにして学んでいるのでしょう。
永平寺の修行の様子を映像で紹介している『修行の四季』を、ヨハネ研究の森では何度も観て生活や学びのスタイルを検討するうえで参考にしているのです。


私と道元 身心一如
ヨハネ研究の森コース代表 横瀬和治

 永平寺は、道元禅師がつくった曹洞宗の総本山で、非常に厳しい修行をしているということで有名なお寺です。私は、三十年以上前に道元禅師の本を読んで衝撃を受けたんです。「この人は凄い人だ」と。
 私は二十代の後半から自分で事業を立ち上げて仕事をするということを始めました。生きていくためにはお金を稼がなきゃいけないでしょう。だから、お金になるような仕事をするんだけど、やりたいことや好きなことをやればお金が稼げるかというとそうではなくて、世間や社会から求められることをやらなければお金は稼げない。
 私はどちらかと言うと「自分としては別にやりたくもないこと」をやると世間の人が「凄いですね!」と評価してくれてお金がもらえるという感じだった。
 いったい仕事をするっていうのは何なのでしょう。やりたくもないことをやらなくちゃいけないというのは大変でしょう。そして、自分で事業を立ち上げるということは、仲のいい人だけ付き合っていればいいともならなくなる。わがままな人や嫌だなぁと思うような人とも組んでやっていかなくちゃいけない。これも大変でしょう。生きるということは、一体どういうことなんだと思って、当時大いに悩んでいた時期がありました。
 私が経営者で一番偉いはずなのに、トイレ掃除や食器の片付け、掃除、全部私がやっていました。他の人は自分の仕事だけやっていて、これはなんだか変だよねと思いながら、朝から晩まで仕事をして、自分の時間はなくなるし、これじゃあ奴隷じゃないかって思って、もうやめようかと思ったり、腹が立ったりしていました。サラリーマンの方がよっぽどいいんじゃないかって。だから、私はそのころ仕事とはなんなのか、生きるとは一体どういうことなのかって本当に悩んでいたのです。
 そのときに、道元禅師の本を読んで、凄く衝撃を受けた。もちろんそれ以前にも読んでいたけれど、「今いる場で一体になれ」と言われても、「そういうものかね」と思うくらいで、ピンとこなかったんです。
 けれど、自分で事業を経営し始めて、どんどん忙しくなって、自分の時間、プライベートの時間がどんどん削られていって、そして、ついに本当に二十四時間全部仕事で、自分の時間なんてまったくなくなってしまったとき、「それでも私は私なんだよね」と思ったんです。自分の時間がなくなったら、自分がなくなってしまうと思っていたけれど、実際なくなってみたら、そんな風にはならなかった。
 そういう経験をして、改めて道元禅師の本を読んだときに道元禅師が「自分が今いる場と一体になれ」って言っていたのは「こういうことだったのか! 」と分かったんです。
 それまでの私は、心とからだがバラバラだった。今いる場、今やっていることとは別のこと、自分が興味のあることややりたいことの方を頭で考えていて、今自分がいる場と一体になっていなかった。
 だから、自分の時間がなくなると苦しくてたまりませんでした。やりたいことができないって思ってね。
 だけど、仕事が忙しくって、本当に自分の時間がゼロになったときに私はそこで変わることができたんです。
 今やっていることに没頭すればいい、それが私なんだと思うようになった。そうして見たときに、道元禅師の言葉は、本当にそうだよねと思うようになった。
 これは、今みんなが聞いてももしかしたら分からないかもしれない。けれど、私にとっては道元禅師の本や言葉というのは、そういうものなんです。興味がある人は、いろいろ本を読んでみるといいですよ。


「生きること」を徹底する

 永平寺は、道元禅師の教えを実践する「修行」の場だと映像では紹介されていたよね。「修行」と言うと、何か特別なことをしているって思うじゃない。厳しい修行だなって。
 だけど、よくよく見てみるとね、朝起きて、顔を洗って、歯を磨いて、身支度をして、座禅をして、ご飯を食べて、掃除して、働いて、また座禅して、風呂に入って寝るということをみんなで一緒に延々やっているわけでしょう。
 これは「生活」なんです。毎日毎日繰り返しているもの。自分たちが生きていくために必要なことをやっていっているだけでしょう。
 ヨハネ生だって同じことをしているんですよ。春夏秋冬それぞれに行事があって、毎日毎日繰り返しやっていることがあって、永平寺はその「生活」というものを徹底してやっていっている場所だということです。
 今、家では「生活」っていうものがとても曖昧になってしまっています。ご飯をつくるのも大変だからといって、すぐに外食に行ったり、出来合いのものを買って済ませたりして、「自分でつくる」ということをなかなかしなくなってしまった。
 だけど、本来人間は「生活」のなかからたくさんのことを学んで、いろんなことができるようになっていって、一人前になっていく。その「生活」を崩してしまうと、人間はちゃんと人間として育つことができなくなってしまうかもしれない。
 永平寺は人類の何百万年も続いてきた「生活」のリズムを徹底して守っていこうとしている。人類が生き残るために必要でやってきたことを共同体の中で徹底してやっていっていく。
 好き嫌い関係なく、その場で何をしているのかを見抜いて、先輩の真似をして、延々と続けている。それが今の人類のからだをつくりあげてきた「生活」のスタイルだから。
 今、自分のやりたいこと、なりたいものになるということがよしとされているけれど、本当にそれはいいことなんだろうか。いろんな問題が起きている理由は、人類が何百万年も続けてきた「生活」の「スタイル」を崩している結果なのかもしれない。
 永平寺がやっていることは「修行」とか特別なことではないんです。人類の「文化」をつくりあげてきた「生活」の「スタイル」を崩さずに徹底して続けているということなんです。人が学ぶ場というものは、そういう実践の場なんです。ヨハネ研究の森もそうだし、家庭もそうでないといけない。
 掃除一つとっても、「ただ片付ける」ということではなくて、それを通して場を「清める」、心を「清める」ということへと「昇華」させていった人たちがいるでしょう。凄いことですよ。これは、単に「機能」として、「やればいい」というところからは生まれてこない。「そのことと一体になる」ことを通して、「それになりきって」、はじめてそういうことが起こるんです。


行為から所作へ

 カーテンの開け方、箒の掃き方、雑巾の拭き方、そういうものと一体になったときに、「スタイル」が生まれるんです。所作。単なる行為を「所作」へと変えるのは、「今自分がいる場と一体になる」ことが必要。「心ここにあらず」でやってもそうならない。
 ヨハネ研究の森で「生活」を重視しているのは、そういうことを意識して欲しいんです。「生きる」ということを徹底するのが「生活」ということです。