メディアの時代を生き抜くリテラシー(後半)
2011年10月28日(金)

日本の学校教育が直面しているもっとも大きな課題は、「子どもの心が育たない」ということ。 テレビやインターネットの普及で「知識」だけは大人顔負けの子どもたち。子どもを「口舌の徒」ではなく、 「一人前の大人」に育てるために必要な「リテラシー」とは。

メディアの時代を生き抜くリテラシー(前半)からの続き


仕事とはなにか

松並Tこのあいだヨハネ研究の森で体育祭をしましたが、あれだって企画実行してくれた人たちがいるわけです。 メダルを作ろうって、アルミ缶を集めて熱して、型に流して作ったり、旗を作ったり、準備を一生懸命やっていて、 「凄いなぁ」と思ったんですが、企画して、協力者を募って、一緒に創りあげていく。「参加する」。 これをそれぞれ考えて欲しいと思うんです。

今、大震災から、電気ってなにか、エネルギーってなにか、ということをやって地震、津波、自然エネルギー、 代替エネルギー、スマートグリッドとは、三車火宅とはなにか、メディアとはなにかという話があって、濱口梧陵の映像を見た。

そこから「復興」を考えてみたときに、体育祭を企画したり、いろんな人を巻き込んでメダルを作ったり、 旗を作ったり、というのは濱口梧陵が自分の村が津波に遭ったとき、「自分が何とかしなくては」と思って動いて、 女の人も子どもも一緒に津波に負けない堤防をつくるんだってやっていったということに重なっているよね、 と僕は思うんです。

復興を考えた時に、自分がいる場所にどう参加するか、と考えることがすごく大事だなと思うんです。 今みんなはお父さん、お母さんが守ってくれているから、こうして学校に来られているわけです。 家族の一員として。そして、ヨハネ研究の森の一員としている。 でも、学校を卒業したらいつまでもお父さんお母さんに頼っていられない。 自立する必要がある。そのとき、外に出て、仕事をしていくのだけれど、仕事とは一体なんでしょう。 どうやって作るのか。

これは僕が大学生の頃からずっと考えていることです。みんなも考えてみて欲しい。 ヨハネ研究の森のいいところは、企画を立てて、実際にそれをやることを通して「本当の仕事」ができるということだと思います。 「ごっこ遊び」ではない、本当に「価値を提供する」ということが経験できる。

体育祭を通して、「みんなが一つになれたらいいよね」と企画をして、それを実際にやって、 「一体感」を創りあげてしまう。これは、凄いことなんじゃないですか? 自分がいる場に「価値」を提供する。自分が関わっている人を「喜ばせる」。 そういうことが仕事をするということだし、仕事を作るということだと思うんです。

そうすると、今回の濱口梧陵は物凄い価値を提供した人でしょう。 津波の不安で村を捨てようとしていた村人に百世の安心を築いた。 ソフトバンクの孫さんはそれと近いことをしようとしている。 「こういう風にしよう」とビジョンを描いて、そこに人を巻き込んで動かしていく。 その人たちの生き方は今ヨハネ研究の森で、ヨハネ研究の森という「場」をよりよくしようと 主体的に参加している人たちと重なってくるでしょう。


口舌の徒になるな

横瀬T濱口梧陵さんの写真や話を聞いて、その生き方から刺激を受けないとしたら、ヨハネ生とは言えないですよ。 多少本を読むようになったとか、文章書くようになったって、何もできはしません。 毎日毎日を自分がどうやって生きるのか。それと向き合うことが生きるということなんです。 しょうがなしに食べて、寝てってしてるみたいなのはダメなの。

メディアについての話が笠原先生からあったよね。 メディアというのは「mediate」するもの、間をとりもつものなの。 今の時代は、直接自然の中で生きるとはなっていないんです。 メディアが間に入ってきていて、その中で生きているの。 だから、自分が見たり聞いたり感じたりしたことをもとに考えるということをやらないと本当の意味で学ぶということは できなくなっている。

たとえば、震災だって「これはいったい何なのか」ということについては最初の一週間、誰も何も言わなかった。 震度がいくつだとか、被害はこういう状況ですということしか言わない。

でも、その一週間で特定の非常に優れた人たちが独自のメディアを通して、「これはこういうことだと思う、 だからこう考えて、こういう対処をしないと乗り切れないだろう」と言い出した。 自分の体験から感じ、考えたことをギリギリまで吟味してそれを言葉にする。 そういう人の声はお腹の底から出るから人に響くんです。 だから、聞いた人は「なるほど」と心に響いて納得してしまう。

そういう人が現われると、その途端にマスメディアで同じようなことをペラペラ言い出す人が出てくる。 こういうのを「口舌の徒」と言うんです。こういう人たちの共通した喋り方は声がのどから出てる。 実践が伴っていないから、何の説得力もないんです。それは言葉の音を聞くと分かります。

本当の津波に出くわして、ギリギリ助かった人だったら言葉になりませんよ。 そういう人はテレビでペラペラ喋っているようなことは言いません。 だって、これまで体験したこともないようなことに出会っちゃってるんだから。 どんな言葉を使っても「違う」と感じてしまうから言葉にならない。 自分の体験を言葉にしていくということは本当は凄く大変なことなの。 ペラペラ喋る人は、自分の体験とは切り離しているからできるんです。 言葉に責任を持つ気がなければいくらでも喋れるでしょう。そんな風になってはダメですよ。

言葉が軽い人。それは、自分の「体験から言葉をつむぐ」ということをしていない人なんです。 言葉は、それ自体の組み立てて自分が直に見てもいない、経験してもいないものをそれなりに喋ることができる。 でもそれは軽いよね。それを見抜けなかったらダメ。言葉の軽さを見抜けないっていうのは修行が足りないの。


実践者のための「リテラシー」

ヨハネ研究の森で、毎日「自分の言葉でその日にあったことをまとめる」ということをしているけれど それはそういう訓練をしているの。 そうやって自分なりの理解を作り上げながら、セッションを通してここにいる人が相互で共有できる理解をつくれるか どうかということに挑戦しているんです。

大変なことですよ。誰かが言ったことをそのまま鵜呑みにして済む話ではない。 勉強するというのは、教科書を理解して覚えて知識を得るという考え方があるけれど、 ヨハネ研究の森はそういう考え方はとっていません。

濱口梧陵さんが、かなり優れていると思ったのは、一万冊ぐらいの書籍を個人でそろえていた。 印刷技術もない時代。本は手書きですよ。今みたいに本屋に並んでる時代じゃない。 それを集めるのはよほど本人が「読みたい」と思っていなかったら無理ですよ。 だから、何遍も何遍も暗記するくらい、体の中に落ちていくくらい何回も読んで検討するということが なされてたんだと思います。 そして、津波とか大地震のこと、自分の村のことがどうなってるのかということも体で分かっていた。 そうでなかったら、地震が来た後にとっさの判断で村人を避難させるなんて絶対できませんよ。 非常に優れてる人なの。

濱口梧陵さんは事業家だし、実践者だから、具体的にやっていく人。 事業を営むということは、その場が環境で、どんな生活をしていて、どんな歴史があって、 どんな考え方があるのかということをふまえてやらないとできません。 自分が作りたいものを作ってもそれはうまくいかないんです。

濱口梧陵さんのように本当に自分の体験や生き方とつなげて、自分の世界を広げていくことができる力。 それが「リテラシー」です。ヨハネ生が磨いているのは、根本的にはそれですよ。


「継承」を可能にするメディア

それから、濱口梧陵さんは醤油屋の七代目なの。これも重要だよね。 武士は跡を継ぎを育てるということをやっていたよね。そうでないと家系が途絶えてしまうから。 でも、商人で跡継ぎというのはみんなそうしていたんだろうか。

私が子どもの頃、60年前、普通の家庭はお金持ちだろうがなかろうが、親が子どもを生んで育てて、跡を継いでもらうという考え方が当たり前にあった。 だけど、私が大人になっていく過程で個人の自由という考え方が一般的になっていって、家を継ぐという考え方は消えていった。 今、親子代々そういうことを話題にし、お前もやりたいことをやればいいってことじゃないんだよ、 この家を絶やさないようにどうやっていくかということを考えないといけないよと話をする家庭はありますか?

私は、そういう人に出会うと「これはかなわないよね」と思うんです。 地元に100年、200年住んでいる家だから自分の住んでいる場に独特の愛着を持っている。 「末代まで恥をかかないような生き方をしないといけない」と家を継ぐ人たちは、そういう風に育てられるの。 だから、濱口梧陵さんもそういう環境の中で育てられてるでしょう。

だから、濱口梧陵さんは七代目としての自覚がある。故郷への愛着と誇りを持っている 。だから、自分の村が津波で壊滅的な状況になったときに、どうやって復興していくかと考え、 実行していくことができたんだよね。30代でそういう視野と視点を持っていた。これは凄いことですよ。 先祖代々の積み上げたものを「継承」しているからできるんです。

では、先祖代々となっていない家の人はそういうことはできないのか。 百姓でありながら凄くなった人がいます。ジョン万次郎。四国の土佐清水、寒村のその中でも特に貧乏な漁師の家で、 10歳になったら漁に出ていた。 それで、嵐にあって遭難して、アメリカの捕鯨船に助けられ、船長の手伝いをしながらアメリカに行き、 船長に養子として育てられ、アメリカで勉強して船長になって日本に戻ってきた人。 この人は代々なんてなってなかったはずです。なぜなら、文字を持っていなかったから。

文字を持つということはメディアですよ。時間と空間を越える。 持続させる、継続させるということが可能になる。ジョン万次郎は文字を知らずにアメリカに行き、そこで教育を受けた。 文字を読み書きできるようになったんです。書きことばで自分の経験を文字にして、それを伝えることができる。 あるいは、他人の経験を文字から知っていくということができるようになっていった。

知識を増やすのではなく、先人の経験を「ことば」を通して継承できるようになったということです。 学校で学ぶことは本当はそういうことなんです。この話も各自でよく検討してみてくださいね。