私学教育研修集会でのモデル授業
2009年11月10日


「ことば」とはなにか

 2009年11月10日(火)に、千葉県内の私学の先生方が来校して行われた「第21回千葉県私学教育研修集会」において、ヨハネ研究の森コースの中学生を対象にモデル授業が行われました。
その様子をヨハネ生のメモを手がかりに再構成してレポートします。



大下T  ヨハネ研究の森では、毎年テーマを掲げて研究するという事が行われていますが、今年は、『人類史』という切り口で様々な角度から研究活動が行なわれています。
 その関係で、人類が手に入れたもののひとつ「言葉」の問題を検討していますが、言葉の存在意義、言葉が誕生したことで、人類がどう進歩してきたか、それらの検討のために、この間はヘレン・ケラーに焦点を当てて追究してきています。
 (11月4日にヨハネ生は全員で『奇跡の人』の観劇に行ってきました)

 そこで、本日は、人間にとって当たり前のように使っている言葉が、「あるのと無いのとではどう違うのか」ということに絞って検討してみたいと思います。
 誰かこのことについて考えている人いますか?

橋場  あまり深く考えることができないのですが、昔の人は、狩りをするときに、言葉が無くてもできたのではないか、しかし、狩りはできたとしても、農業や貿易などは言葉がないとできなかったんじゃないかと。そう考えてみました。

大場さ  ヘレン・ケラーが言葉を獲得するプロセスで、大きく二つの段階を考えることができると思います。
 一つは、自分の考えを相手に伝えて共有する事ができる、そういう意味の「言葉」。『奇跡の人』のなかでも、ヘレンが指文字を使って意志を伝えた、そういうもの。いわゆる「言葉」というときには、まず、こういうものが真っ先に浮かびます。
 もう一つは、「ヘレンケラーはどう教育されたか」というサリバン先生が書いた本の31ページの一番最後のところで、へレンが無性に「Water」という言葉を知りたがっている場面があります。まだ、『奇跡の人』でいう「ポンプ」のところで言葉の意味に気づく以前の話。そこでは、ヘレンは、ものには名前がある、という事に気づいたことにはならないのだろうか。
 半分に切ったリンゴと、そのままのリンゴを渡して、どっちもリンゴだ、と綴っても、どっちも同じだという理解がまだできていなかった。でも、ポンプのところでヘレンが気づいた後は、それが切ってあるだけで同じだ、と理解できるようになったのではないか。

河辺  僕が言葉を獲得したおかげで、自分の経験した事を記憶し、言葉で人に伝えることができる。写真を見て、そこに何があったか、ということを説明できる。これをイメージだけではうまく相手に伝えることができない。
 子供の頃は、絵や風景のようなイメージの方が自分の中に記憶しやすかったように思う。それは、小さい子は、猿と同じで、まだ言葉を持っていないので、風景のようなイメージのほうが覚えやすかったのではないか。

今井  小さい頃、人と同じものを見ているのか、という事を疑問に思っていた。僕が、あるものを見て赤だと思っても、他の人にも同じように見えているのか、もしかしたら全然違うように見えているのかもしれない、と。
また、タイトルは忘れてしまいましたが、ある本で読んだのだけれども、人は、生れてから9ヶ月目くらいの時に、「9ヶ月革命」といって自分の存在を自覚し始めるらしい。それと同時に、ものの区別もできるようになるらしい。ヘレンケラーは、一歳と7ヶ月の時に、脳と胃の急性鬱血で、三重苦になってしまった。しかし、頭の片隅では、すでにものの区別が付いていたのではないか。

簡汰  言葉を使えるようになると、他人の考えを知ることができる。すると、見えないものや過去のものを知ったりする事ができるようになる。フィクションなどの作り事も。たとえば、数学でいえば、「どこまでも永遠に続く直線」、そういうものは、頭で考える事ができるようになる。現実に無いものを考えることができる。

西山大 言葉がない場合は、記憶が長続きしないのではないだろうか。
 去年の「生命とは」で扱った「猿と人」の研究グループで、瞬間に出た数字を記憶して、小さい順に押していく簡くんがつくっってくれたマスキングゲームというゲームを思い出しました。
 1という数字をアナログ化して考えると、数字を見て一つ一つ対応させて考えなくてはいけない。言葉があると、さっき河辺くんが言ってたように、長期的な記憶が残せるのではないか。

 ぜひ今、ここで試してみたいことがあります。
 みなさん、これを挙げてください。(「ヘレンケラーはどう教育されたか」という本)
そうすると、みんな同じように挙げますよね。でも、僕は、「これを挙げてください」と言っただけ。
さっき大場さんが言っていたのは、ヘレンは、その流れているものは何なのか、と思ったんだと思う。
ヘレンが熱病におかされる前に使っていた「Water」(ヘレンにとっては「ワー・ワー」)という音声と「水」そのもののイメージがつながるきっかけなのかもしれないと思う。
今、その場で感じ取っているもの(水それ自体)。それとは別に「言葉」というものがある。
「奇跡の人」のあの井戸端でのシーンは、水というものは、ポンプの水だけでなく、川を流れる水、空から降ってくる水(雨)などいろいろな水がある。でも、これらを総称して「水」と言うんだということがわかった瞬間だったのかもしれない。

丸木  「言葉」という言葉がずっと使われているが、言葉というものを広い意味で考えると、ボディランゲージやアイコンタクトというものもある。今ここで検討されているものは、むしろ「言語」というように限定して、「言葉」と「言語」を区別した方がいいのかもしれない。ヘレンケラーが、「言葉を獲得する」という時に、ここでいう「言葉」は指文字を使った「言語」を指しているのではないか。
 言語というものを獲得すると、言葉を通して、目の前に無いものを表すことができる。想像することができる。
 想像する、という事自体は、今までにないアイディアを出すことに繋がっていく。

田端  関係というところに目を付けて考えてみた。僕たちは、言葉を使うときに、同時に顔の表情なども表現の一つとして使っている。その中に自分の意志も組み込まれている。このときすでにその相手との関係も表現されているのではないか。だから、言葉が無くなってしまうと関係も作れなくなってしまう。
 動物でも同じ。家で飼っている犬に、こっちにおいでというと、来る。それは、飼い主と犬との間に、ある関係が作られているから。
 この前、野良猫がいたので眺めていたら、ある人には近づくのに僕には近づかない。  それは、僕とその猫との関係がなくて、近づいていったその人とは、関係ができている、ということになるのかな。

吉野  これまでの議論の流れを見ていて思った。意見の中で共通していることがある。
 言葉は、ものに形を与えることが出来るんじゃないかと。相手の考えを理解しようとするときに、表情で少しは察することができるけど、その人が言語を用いると、主観的にではなく、よくわかることができる。
 「あり得ないもの」も、言葉を使って実際に形にすることができる。
 ここに本が三冊ある。全部違う本だが、「本」というものでひとくくりされている。それと同じように、目に見えないものにも共通のくくりを与えるのが「言語」だと思う。

大下T  みんなから多くの意見が出てきて、あっという間に時間が来てしまいました。まだ、うまく整理されていない部分もあるようなので、それぞれ振り返ってまとめておいてください。
 最後になってしまいましたが先生方からも一言いただけますか。



保科T  私は、小さい子のことを考えていました。
 たとえば、わたしが台所で仕事をしていると、小さい子どもは、その真似をしだします。そういうことからすると、言葉というのは、何かを一緒にやってるんだ、一緒の考えを持っているんだ、というのを広げていく、ということなんじゃないかと。鳥の鳴き声なども仲間がなにかを共有しようとしているのではないか。
 「人間」というくくりだけで考えると考えが広がらずに途切れていまう。もう少し、広い視野で考えてみても良いのかも。

鈴木T  人間は、「言葉」を使って嘘もつく。「言葉を使う」ことの功罪という側面でも考えてみたいですね。
 先ほどの大場さんの発言に刺激を受け、私も新しい仮説を提示したいと思います。
 ヘレンケラーは、一歳半まではふつうの女の子。そのときに、人間同士が話をしている風景をすでに見ている。ヘレンケラー自身が、三重苦になる前に、すでに言葉を得ていたとヘレンの母親が言っていることからすると、熱病にかかって、目が見えなくなり、耳が聞こえなくなった後でも、頭はしっかりしていたわけだから、それまでの記憶はちゃんと残っていた可能性があります。映画「奇跡の人」の中で、人と人が話しているときに、へレンがその人の口に手を当てようとするのは、人の口から言葉が発せられるのを知っていた。(言葉の存在を知っていた)なのに、自分はしゃべれない、ということにいらだち、癇癪をもったのではないか。
 ヘレンは、その後、指文字が実は口から出てくる言葉と同じ目的のものであることにようやく気づいた。ものに名前があることを知らなかったのではなく、知っていたのではないか。「指文字」が「しゃべる」ことと同じ、言葉を表現する道具であることに気づくのに時間がかかった、というのが真相なのかもしれない。
これはあくまでも私の仮説ですよ。

大下  ハイ、それでは今日はこれにて終了します。